Now it is time to respect Japanese rapper. Why do you agree with the splendid policy? For instance, I borrow the word [Oretoujou]. I agree with [This is the stage of me.] and it should have been a message from great Japanese rapper. There is no reason why a temptation to get along with this attractive word does not breathe.
Once upon a time, so many [Oretoujou] were around me as a walker on the pavement. Recognizing officers committing them as criminal, I rejected them by myself. Saying [Oretoujou] by the body, they were stalkers. There was an awful appetite above us. As two or three officers appeared in front of me, perhaps one of them said to me [We know that they are criminal. Going to the hospital is required for your solution.] There is a snake pit about which hazardous map to make sense does not make sense.
As I had not cared whether or not he had disguised himself, a constructor had come to me after written sentences above this by me. He was not [Oretoujou], but he was somewhat para- on (the) purpose of somebody indicating himself. My disease was not paranoia but schizophrenia. My personal history is full of them, I know. Somewhat para- have appeared to the degree of infinitive justice, which is by accident or not, since my childhood.
In general, there are no specific objections to [Kenkyoninarimashou] in Japanese to be translated into [Be polite.] in English. However, [Be sensitive.] accuses the author of a strange expression sometimes. A sensible gentleman might become a sensitive person beyond the description.
「母親」という存在がどのヒトの個体においても在りますけど、母親以外の女性の存在を鑑みるということにおいて、母親というのは母親以外のメスとは何も関係の無いヒトのメスの映像ですらない形象のようなものつまり「語り手」であると私は考えています。……「母親」には思い出があるんです。
古来日本では雨乞いのために巫女さんが「火を焚く」ということがあったんですね。もちろん自然現象として山火事の類でも無い限り、焚き火程度で起こる上昇気流によって雲が発生して雨が降るということは考えにくいことです。つまりこういったことは儀式の意味合いの側面が強いわけです。だから、というか、つまり、古代欧州においても(というかどこでも)水は火から発生すると考えられていたり、Upanischadなんかでは言語火所成であるとされ「火の微細な成分が上方へ向かってのぼり言語となる」といわれていたりしてます。西暦で数えて250年くらいにはこの日本という国は卑弥呼がおさめて女系社会をつくっていたということがあり(得)ますし、ヤマタノオロチの伝説とかの存在を鑑みても分かるように既にこの頃には「美女」という概念が登場しています。だから私は前ブログでも書いたんですけど、あの現代日本における商業店舗等で女性店員が三連コンボで発する「いらっしゃいませ~、おあずかりしま~す、ありがとうございました~」という決まりゼリフが言い様もなくおぞましいというのがあるんですけど。
誤解という材料を与えることで火を熾すことが出来てしまうんですね。文(化・明)は言葉と両立して発生してきます。そして、言葉を知らない・言葉を使えないまた火を使うことを知らない・火を使えない動物には誤解というものはないということがあり得ます。……それが恣意的なものであれそうでないものであれ「誤解すること」によって火に火をくべてどうするんですかね……この辺に生物の進化の秘密がありそうです。
結婚または共同体への帰属ということにおいて、結婚式であろうが葬式であろうがそれにおいては結婚(の義(もしくは、儀)(という言葉は使いたくないんですけど日本語の語義上仕方なくここではこれを使用しておきます))もしくは葬送される個人の死そのものが取り沙汰され得るものであり儀礼そのものが少なくとも価値あるものとして取り扱われるということはあり得ません。そして(よって)行為としてのセックスがナンセンスであるという発想もしくは考えがここから生まれます。名前というものの性質を考える場合、名前の名前性というものは有り得ません。固有名詞性は存在するが記号性はツールであるということが考えられた場合無視されるべきであるものである、ということです。しかし、偽名というものが用いられることは社会において存分に有り得るということでもあります。made in Japanの製品におけるmade in Japanの表記においてmade in "Japan"に価値が在るわけであって"made" in Japanに価値が在るわけではないということがあります。
物事の本質として、「私」も「公」も「国」も同じ立ち位置から発生するものであり同じ立ち位置であるということなのであって、その現態を無視して「私」と「公」と「国」を分けることは(ことこそが)公私混同の大元であり場合により公私混同そのものでありこのことが自体的にナンセンスの極みであるということです。この西暦2014年時点でのこの日本という国におけるメーカー企業さんやbuyerやsellerが食料品等日常的な消費財については安価で良質なものが消費者に手に入るように取り計らってくれているので私も含めた一般的な消費者が物価云々で困るということはありません、だから現象としてのスタグフレーションすら起こりません、これは単に鑑みではなく現象として起こるところのミクロ経済学的一面的自然淘汰には任せないという人々の知恵の恩恵です。スタグフレーションの逆が起こってスタグフレーションの結果人口も労働力も供給過剰になって且つ物価も上がるという状態からの反動としての天災にも期待できない飢饉も最低限のヒトの生命を維持する食料品を生産する技術や社会的システムのために起こらないが故に戦争が起こり悲惨なヒトとヒト同士の直接的物理的殺し合いということとは逆の人口も労働力も供給不足にはなるが且つ物価も下がるという状態になり、それと付帯する形で、事象としてinnovationが短期の(とはいってもa generationつまり20~30年単位で)現在完了形で起こり革新された技術の(社会的)悪用ということは無くなり革新された技術は(社会的)善良用されるようになるなっているということです。経済学でもなく経済史でもなく経済学史でもなく経済史学というものが在り得るということです。長期における成長だとかいったことをそれが国(政府)の政策によるものであろうがなんであろうがあくまで貨幣を用いたものとしてのものとしてマクロ経済学は説明しようとしますが、ヒトは労働の対価報酬として得た貨幣を物理的に摂食して肉体の生命を維持し生存しているのではないのであって食物を摂取したり道具を使用したりヒト同士でコミュニケーションをとったりしながら生存しています。
自分が所属する肯定的なミクロの世界を作るために否定的なマクロの世界を作るこの場合は悪質であるところの性善説の保持者、と、自分が所属する肯定的なマクロの世界を作るために否定的なミクロの世界を作るこの場合は良質であるところの性悪説の保持者、が居ます。
隠すことを隠さないことはひたすらな(無限回な)右傾化を招くのであって「右」です、隠さないことを隠すことはひたすらな(無限回な)左傾化を招くだけであって「左」です。で、日本では古来から例えば天皇等の位が高いヒトが死ぬことを「御隠れ」といいます、「おかくれになられた」だとか「おかくれあそばされた」だとか。他には「ご崩御」という言い方もあります。だからやはり少なくともこれだけの言葉の上からだけ鑑みるにおいても日本は「右」の国です。
ちなみに、私は自身を形容表現として最下級というよりはちょっと特別に除外されたネタでありダシと自覚しています。
人口が増えると(読んで字の如くの)資源の枯渇に繋がります、そして別に人口がいたずらに増えたからといってそれだけ技術進歩の度合いが早まるわけではありませんしそれだけ社会保障の安定度は減耗していきますしこれは収穫逓減の法則ということで特にマクロ経済学で引き合いに出されて説明されることがあります、だからいたずらに不必要な人口の増加は汎世界的に起こらない方が明らかに良いです。マクロ経済学の考えもしくは観点からすると企業もしくは組織というものは「社会の『生産性』」を最適化してくれるというものです、だから汎社会的に必要の無い企業もしくは組織(形態)は自然淘汰のメカニズムの前にそのように淘汰されていきますし企業は障害者や子供や(場合に因り)老人やその企業における職務を遂行する能力や知能の無いヒトを雇うことはありませんし雇い得ません、原子爆弾も二発落ちましたしベルリンの壁も取り壊されましたしソビエト連邦も解体したのであってsocialism(大文字でのもしくは古い意味での「社会『主義』」)はその破滅性が故に歴史的必然としてとっくに崩壊しました。
「数学を用いた『ミクロ』」であるが故にの必然としてのマクロ経済学における(the) objectの供給の曲線(供給曲線)における収穫逓減を当然であるところのものとして絶対的定理として適用しヒトにおける労働というものを説明する場合、横軸として複素数で表されるところの売却され得る労働力(実数+実数×虚数i(内容の定義上虚軸ベクトルそのもの)(労働内容)、実数+実数/虚数i(内容の定義上虚軸ベクトルそのもの)(労働時間)、をその要素として含めた、つまりは複素数である数式を虚数iが内容の定義上虚軸ベクトルそのものであるこ考慮した上で様々な形で組み合わせたり分解したりして変形して下さい)そして縦軸として複素数で表されるところの当該社会にて健常な社会生活を営む上で必要な貨幣量である具体的仕事(つまりは複素数である数式を虚数iが内容の定義上虚軸ベクトルそのものであることを考慮した上で様々な形で組み合わせたり分解したりして変形して下さい)を設定し真数と底(正の整数1より大)が実数である対数関数のうちいずれかの真数と底(正の整数1より大)が実数である対数関数と需要曲線としてのその当該の真数と底(正の整数1より大)が実数である対数関数の導関数との連立方程式の解が上記売却され得る労働力と当該社会にて健常な社会生活を営む上で必要な貨幣量である具体的仕事として設定され得るということがあります。真数と底が実数である対数関数の底が正の整数1より大である限りにおいての差異は労働力を提供する個々の(the) objectの能力や((場合により)趣向や)取り巻かれている種々の環境に因ります、然らずんば当然これにはヒトビトの幸福が維持された上での健常な体制での社会の維持や技術革新の存在を前提とするところの(語弊が存在するところの「労働」という(日本語における)言葉ではなく)「仕事」を通じて社会と繋がるというところの意識を育成するべくの子供達に対する健全な教育が前提となっているということがあります、そしてこれによって培われた意識のもと仕事というものに対する意義や満足度(虚数i(内容の定義上虚軸ベクトルそのもの))といったものが喚起せしめられるということになってきます。ヒトは生物学的にも機会的にも様々な側面において違いが存在するので上記の説明における底が0以上で1より小(0≦底<1)という場合の対数関数とその導関数との連立方程式の解の存在ということを考えると以下のことを理解しやすいということがあるんですけど、何らかの原因により労働市場に参画するヒト以外のヒトに対する例えば教育費用や年金であるとかいったものはそれを管理管轄する公的部署の存在に拠り可能です、公的部署の存在は上記健常な体制での社会の維持ということを鑑みれば何の問題も無く是認されるものです……ちなみにこれには確認され得るものとしての生物である一個体を示すものとしての名前(氏名)の存在や確認され得るものとしての年齢や障害を負っていることつまり障害者が障害者として認定されること(自体)や安楽死の是認や菜食主義(どうしても動物性タンパク質が欲しければ良質なものとして牛さんから頂いた牛乳を飲みましょう)や底が(0<定数<∞)/∞という場合のobjectivityたる当該の当該性たる(底が1/∞だと)教皇的役割もしくは天使的役割のヒトの存在や底が0という場合の偽(の当該の当該性)たる(何故か)subjectたる被天皇(な役割自覚)な異常なおかしいヒトたちの存在が必要概として絡んできます、上記の説明における底が1という(場合の)神聖さについてはご理解下さい(靖国神社に「英霊」として祀られている第二次大戦の戦犯個々人は既に死後だからそのように「英霊」として為されておりそのように価値があるのであり、「英霊」の戦争犯罪そのものを崇め奉っている地球が惑星として宇宙に存在していることを否定することを辞めない人間たちは論外であり、日本の右翼のヒトたちは右翼であるからこそ自分たちが十字架の元にあるという当たり前のことは分かり切ってますし天皇陛下は仕事として日本の「象徴」であり「現人神」ではなく、つまり皇室のヒトたちに対して天皇陛下万歳といって日の丸の旗を振るべくして振るのが良いのであってそれでこそ日本国民であるということです。分かりやすくは、HakenkreuzがKreuzどころかアンチクライストな反十字架の象徴紋章であるということは上記で説明した簡単な数学を用いた経済学の論理から即ご理解いただけます、Hakenkreuzを現在のヨーロッパの土地の地理的場形象にかこつける必要はありません。デジタルな10進数では表すことが不可能なよって「e」と置かれるe=2.71...という無理数(定数、ちなみにeは例えばxy平面上におけるy=eのx乗やy=logeXのグラフを「描かないと」「『e』として」存在しません)の存在と0.0...01という有理数(定数)の存在そして1.0...01という有理数(定数)の存在を鑑みれば∞は無限遠点を示す記号であるが故に一つの定数に過ぎないものであることが証明されてしまうということ(ちなみに自然数nが∞を超える数として設定されることを数学的に証明することはnが自然数であるが故に不可能でありこれについてはnが正の数もしくは実数であると定義しても不可能です)、つまり物理の(例えばスマートフォンやWi-Fiや無線LANの機構等によって為される無線を介したデジタルデータであろうがデジタルであるが故の何らかのそれの最小単位によってあらわされてしまうその量ということも含めて、物理的な)限界としての∞より大である数は存在するということでありこれを否定したのがアンチクライストな非合理性を極めたナチスであり、つまりナチスは(National Sozialismusの必然として(も))左翼だということです。Nazi Germanyを破ったのは当時のソビエトであり、現在のロシアはプーチン大統領の指導の下健常です。つまり当時のドイツでナチスが政権を取ってから第二次世界大戦が終了するまで歴史学的観点からしてナチスはドイツという国家を壊すものであったということです。ちなみに誤解を招く哲学者ヘーゲル御用達の歴史哲学的観点からすればナチスとユダヤはドイツという国家を壊す共存関係にあったということも言えてしまいそうです。これらは、英語のLet it be.によってあらわされるものや英語のThere is....やThere are....は当然としてドイツ語のEs gibt....によってあらわされるものとは異なるのでありただの英語のf×××(uck)という単語によってあらわされるものでありこれの詳細については過去の雑記と上記の簡単な数学を用いた経済学の論理で説明してあります、「n(n>0)-労働時間の実部」という形でのマクロ経済学であるが故の機会費用のinverse functionの採択ということもきちんと鑑みて下さい、間違えて横軸の値が0から1までの定積分の絶対値と横軸の値が1から連立方程式の解の横軸の値までの定積分の絶対値の和とかやってもそもそもからして算出されるべくのものでしかない社会的死荷重が算出されるということに自体的にとどまるということでもあります、ナチスもHeinrich Himmlerに限って言えば「死を思え」(能動的な死を欲求しろということではない)から学ぶことはあるということなんですけどナチスの愚行はおそらくは主に文化人類学的に最初からユダヤ教徒の人々を当該的に社会的死荷重そのものであるとして傲慢な且つ誤解を招く表現で申し訳ないですが「活かさぬ」目的であったのでこれには該当しません、しかし、あくまでそれの後世になってからの当現代においてはということにはなりますけど該当させることはできます、Before 1945 Nazis said "Think of death with anxity as you are." to Jewish people. However this is wrong answer as the end. Heinrich Himmler did them "I give you a deadline."、ということです、英語の方が色々とというか色々に分かりやすいので。ちなみに、「『芸人』」と呼ばれる芸能人のヒトたちは「芸人は人を笑わせても人に笑われちゃいけねえ」というあの人たちの哲学的理念の通りtemporaryに「『芸人』」だから特にf×××(uck)ではないです、が、養老孟司さんのような医師でありながら愛煙家を自称しているヒトは少なくともその行為において(は)問題があるでしょう。
ちなみに、特に具体的紙幣や具体的硬貨がその具象的役割からして何処の誰が触ったものであるか分からないという点からして物理的に汚いということはあるものであっても貨幣自体がその当該的に汚いものであるということは無いのであって、貨幣は単なる道具でありそれを緩衝材(貨幣のみが現存する緩衝材であるわけではない)であるが故に汚いと取り扱うのは具体的に取り扱うのでもなく抽象的に取り扱うのでもなく(抽象的概念として利用するのでもなく)象徴的に取り扱っているものであるというだけに過ぎないのであって、貨幣は現実世界におけるツールであって汚くもなければ綺麗であるものでもないです。貨幣を特に汚いものとして扱うヒトは貨幣を象徴的に珍重する拝金主義者と同義であって現象学者ならぬところの現実を見ていないもしくは現実を鑑みる能力の無い表象学者でありこのようなヒトは貨幣を現実世界におけるツールとして見做すことができないが故に所持貨幣の量や得られる貨幣量を問題とすることは無く貨幣を得ることへの欲求に頭を洗脳された愚か者であり、つまりこれらのヒトは英語のpricelessという形容詞によって表される「金では買えない属性の価値の存する」ということひいては「価値(そのもの)」を理解することができず「『0(円)という価格つまりタダ』ということでもない『0(円)という価格つまりタダ』に見せかけられたそこに価値が存しない何か」もしくは「価値が無いという価値(ではない)」が存在すると思い込んでいるということであり、英語におけるnoやnotの品詞性の分別やドイツ語におけるkeinやkeineとnichtとの区別が付かないということです。経済学における貨幣は「価『格』」であってthingやmatterのみならずobjectの範疇ということにおいてもそれによって示される価値というものが在るということです。thingもmatterもobjectもobjectivityであり且つthingやmatterとobjectは互いの必要十分条件ではありません。そして、局面的にではありますが、あくまで汎社会的な生産性を持つものである企業の株(share)が扱われている株式市場とそれの機能ということにこのことが抽象されています、し、もし仮に社会における各々の企業の汎社会的職務や業務内容とは関係なく法定通貨で購入が可能な何らかの投機先として利用できるレートが存在する仮の通貨のようなものがあるとすればそれはもはやインターネットが利用されたヒト同士の社会的関係の構築や被構築の極限までの高速化が為されている当現代においてはインサイダーでロンダリングをやりましょうという試みならぬ事案件になってしまうのであって法定通貨における現金貨幣よりも流通速度の高い価値貯蔵手段どころか価値貯蔵手段当該もしくは手段のための手段としてそれは機能し経済テロリズムとなるのであってそれが高い可変度で交換手段に化けた瞬間に問題となるということですがこれを防ぐための手立ての一つとして各経済自治体の中央銀行が法的にそれの発行権を独占して極論すればIMFの様な機関の監視の下それを発行しそれの総価格をマネタリーベースの中に含めずに対マネタリーベース比でそれの発行数を決めるという法定通貨によるそれの囲い込み(enclosure)による金本位制ならぬマネタリーベース本位制とでもいったものを敷いてあとは技術革新のスピードや社会保障の安定度を踏まえた上での財やサービスの質の向上を含めた具体的な社会発展に順じてそれの単価の上下に応じた買い(滅却)オペレーションや発行オペレーションを行えばよいというものがあります、が、各経済自治体がそれの発行を法的に禁止してその中央銀行が同上記IMFの様な機関の監視の下二種類場合によってはそれ以上の種類の法定通貨を発行し技術革新のスピードや社会保障の安定度を踏まえた上での財やサービスの質の向上を含めた具体的な社会発展に順じて((国家)組織の財政面においてということでも)それぞれの種類のその法定通貨を滅却したり発行したりすればよいという手立てもあります、すべてはprice-takerではなくprice makerというと語弊があるのでつまりはprice-giverとして機能しその実質として本質としての競争原理が招かれ問題は無いです。あとちょっとこれと関係ある事を書いておきますと、トランプでポーカーを行ってスートの一番強いスペードでロイヤルストレートフラッシュが出る確率は、joker無しのカード数が計52枚のトランプで行った場合、トランプでポーカーを行うという行為のみを独立した事象として取り上げて確率の計算を行った場合(5×4×3×2)/(52×51×50×49×48)で計算できます、が、joker二枚入りのカード数が計54枚のトランプでポーカーを行ってjoker無しでAスペード・Kスペード・Qスペード・Jスペード・10スペードという形で出る場合が5/53そしてjoker一枚入りで出る場合が5/54と計算できるのでありこちらがポーカーのゲーム一事象にまつわる万事がデジタルな環境下ということでなければ正しいものであるということです。デジタルデータの抽出元が存在するとして(とすると)それに基づくデジタルデータを1とおくことができるということがあります、ということを参照してください。「『役』が出る『確率』」とは何であるのか「(その)存在を(その)存在足らしめるもの」とは何であるのかという問題です。
ハイデッガーは、精神の本質を概念であるとしヘーゲルにおけるそれを思惟ではなくて思惟作用の形式つまり補足作用そのものであるとしていますがこれは合っています、ちなみにはつまりここには無限回の補足があるわけでありヘーゲルにおけるスピノザを引用して精神の本質を否定の否定の否定の……という絶対的な否定であるとしています、で、ハイデッガーはデカルトが「われはわれ思うことを思う、(ゆえにわれあり)」つまり「われはわれが……われがわれ思うことを思うことを……思う、(ゆえにわれあり)」(という論理的形式(として解釈されうる))としていますがこれは間違っています、ハイデッガーが言うようなことはデカルトは認めておらず「われ思う、ゆえにわれあり("Je pense, donc je suis.")」ということが真理であるとしただけです、そして結局ハイデッガーは(精神が所属する)自己は自由であり普遍性と同時に個別性があると結論付けていますがこれは少なくともデカルトとは違います。
抽象的に物事を考えられる人間というのは具体的に物事を考えることもできるわけです。その逆にsymbolizeするのが得意、と言うとDinge an sichにちょっと皮肉の皮肉性が表現されてしまってそれこそ当該的に皮肉って(られて)しまってあんまり良くないんですけど、何でも象徴化・単純化する人間は抽象的に物事考えることもTPOに合わせて現実的に物事考えることもできないわけであってそれが極端に高じると具体的な一個一個の物物に何らかの象徴を見いだすという幻覚を見ている異常な状態になってしまうわけであってそれこそまあ象徴的に言うと|∞|なイカれた状態になってしまう、つまりsubjectiveなヒトビト御用達の主観病的に「(無意味・無意義な)因果関係」を勃興させて「|∞|/0の相関関係」が成り立っている世界を(そんなことは不可能であるにもかかわらず)認識「して」しまうんですね、"subjective"や「主観病」というのは別の言い方で言うと「|∞|/0ではない|∞|/0そのものを何らかの形で示しているに過ぎないobjectならぬsubjectをひたすら現す」ということであって英語の"Let it be."の意味合いを考えてもらうとこのsubjectiveや「主観病」のおかしさが分かりやすいです。この"Let it be."であらわされるものは直訳っぽい「あるがままに」とか「なすがままに」とかいった日本語の言語表現であらわされるものとは異なります、"Let it be."という英語を日本語に訳すことは出来ません。subjectiveなヒトビトはそれこそ単純な(に)二元論が世界の真理だみたいに思いこんじゃったりするわけです、あの二元論というものは抽象的思考でもなんでもなくて象徴的意味合いが非常に強い単純思考の極みです。逆に抽象的に物事を考えられるというのは、objectiveなヒトビト相当として「((生物の一個体として生きている自分にできる範囲で)有意味・有意義な)相関関係」を喚起せしめて「『|∞|/0の因果関係』は存在する」ということをきちんと理解できるということです。キリスト教やイスラム教の「祈る」というのはこれを成り立たせしめるものです。これは客観「病」とは呼ばれ得ません何故ならばヒトは生物でありヒトとして生物であるからです。点が点の概念であることによって「『『空』集合』の『『存在』『証明』』ということです。「『|∞|/0の因果関係』を全て悟った」人間というのはイコール「|∞|/0の相関関係」が成り立っている世界を認識した人間なのであって、そんな人間は世界中どこを探しても居ないですね。にもかからわずそれを自称したり何らかの形で表明したりする人間たちとは違って、お釈迦様もイエス・キリストさんもマホメットさんもローマ法王もイギリスの女王陛下をはじめとした王室の人たちも日本の天皇陛下をはじめとした皇室の人たちもも君臨者としての(過去幾許かの時代には統治者だったこともあります)一人のヒトですね。
デカルトが言う心というのはêtreであると考えるのが妥当です、つまりヘーゲルにおいては為されなかったseinのdie Umkehrfunktionが「はね返し」(虚数i、imaginäre Zahl)という形でデカルトにおいては成立しています。この「はね返し」によって精神が分裂するもしくは(情報が(として))腑に落ちて馬鹿になるということなんですけど、それらを修復するのが情報の排出です。ただ、一回は(情報を(として))腑に落とさないとヒトは医学生理学生物学上情報を排出できないので身体(論)的に、一時的に馬鹿になるものであろうが何であろうが、これは否定されるべきものではありません。そしてデカルトは外物例えば視覚の対象が視神経を通して脳に影響を与えると言っていますがここにêtreの「はね返され」(1/i)があるのであって後世のヘーゲルの哲学を相関つまり思惟作用の形式つまり補足作用そのものという形で予見どころかもはや先駆者として語っています、他者を利用しない情報の排出には他者の精神を分裂させること(1/i)を避けるという側面もあるということです。
世界がpara-したら精神疾患ひいては規定体の一部となるということでしょう、社会がpara-したらそれはファシズムが台頭した世界というよりはナチス支配下のドイツのような社会が構成されているということでしょう、個人がpara-したらそれは読んで字の如く「それ自身から全てが発している社会ひいては世界が構成されている」ということでしょう、ということです。
自己肯定者は性悪説のものであるが故に、全てのobjectが完全であると思っており、ヒトが生物として生きていることを見做すことが出来ないのであり、生物学的な自己同一性と社会学的な自己同一性の区別が付かないかもしくは自己同一性というものにおいて社会学的なそれしか存在しないというところの精神障害者であり、そして、自己否定者は自己肯定者に対する無視ということで世界や社会を形作るということです。狂信者の凶弾に倒れたJohn Lenonが何かを物語っています。
仮に、直接ということになると単なる当該社会における命令系統においてということになってしまいますからそうではなくて間接に、ヒトを「使う」のではなくて、ヒトを「使わす」ヒトが居たとして、そのヒトは「使わす」ことを無視することはできませんから「現象としての『無視』が存在する」とともに「現象としての『無視されること』が存在する」ということであって少なくともそのヒトを「使わす」ヒトは「使わされた」ヒトに対して(「気に入り」つつも)「気に入らない」わけです。「使わす」存在は「使わされた」存在に対して(「気に入り」つつも)「気に入らない」わけです。
私はこれを書いている西暦2014年11月13日現在でもしょっちゅう悪夢を見るんですけど、いわゆる夢見が悪いヒトというのはこのことがよく分かるはずです、これはグロテスクなものであって何らかの罪悪感や恐怖のようなものが在ることになってしまったり後天の後付けでvisionが浮かんだ白昼夢というよりは目覚めながらにして寝ている間の夢を見たという説明が正しいところのものが非睡眠中でも起こるようになっていったりあくまで「現実」と言葉や言語表現では呼ばれ得るしかないところのものを言語化したものとそしてそれを意識化したものとヒトにおける論理構造思考・ロジックまでもが何らかの外圧によって利用されたとしか考えられないような内容の夢を見ることもあってこれは非常に辛いです……。