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考えること

「時代」という時代の終焉

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「時代」という時代の終焉

こういった議論が行われるということにおいては私も取り敢えずそこらへんのボクやワタシだということになるんですけど、「インターネットのツイッターやなんかのせいでそこらへんのボクやワタシが言ったことが影響を及ぼしてしまう」とか「そこらへんのボクやワタシが言っているということそしてそれが何らかの社会的影響力を発揮してしまう」とかいったご老齢方の意見には私は決定的に反対です、私は実際このような内容の発言を(聴覚をもってして)拝聴しました。内容の鑑みということにまつわって、ネットの社会的影響力が負の方向性的にそんなに気になるかなということです。このことについてはこのブログでも先の記事で書いてますけど、日本人のご老齢方においては全共闘ということがあります、時代というものを依存の対象として求めているということです。私が生まれる前ですけど、左翼全共闘にまつわる悲惨な事件もありました。もはや、今世紀に入って時代像などというものは無くなったというか必要とされなくなったということです。仮にマスコミが「時代」を取り上げたところで特に若者は見向きもしないでしょう。日本におけるということですけど、前世紀~今世紀初頭入ってまだしばらくは主にマスコミによって時代像なるものが必死に喧伝されていました。これは過激でない全共闘です。性風俗等例えば「童貞(を捨てない男性に対する差別)」だとかこれらも全てマスコミが生み出したに俗文化と同じくだらない「時代像」に過ぎません。これらは荒れに荒れていた前世紀末に作り出された社会的幻想であり、前世紀は、今はもう「非行」なんて言葉は無くなってしまいましたが、非行がスタンダード化されていた時代でした。狂気とは疑った結果を信じ過ぎることだったりします。前世紀の戦後の社会を牛耳っていたマスコミが「時代像」というものを捏造していたんです。全共闘革命の後にもオイルショックや悲惨な殺人等社会的に衝撃を与える事件は存在したでしょうが、それはそれで個々の事件に過ぎません。その背景にはマスコミが作り出していた「時代像」よりもはるかに複雑な事情がありました。報道される事件の取捨選択にまつわるマスコミの恣意性という問題があるということです。最近皆スマートフォン見てます、まあPCでネット観覧ということ自体衰退している気もありますし、もはや「時代像」なるものは作られないでしょう。
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