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考えること

Erde zu Erde.

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Erde zu Erde.

デカルトが「省察」において如何なる厳密な意味における思惟であると思惟というものを説明しても、思惟していない間も「われはあり」ます、これは自明だとしか言い様がありません。「形や運動やその他の様態ないしは物体の偶有性がそれをささえている事物(物体)そのものから区別されている」と言っていますけど、これは存在者と存在の区別とは違います。デカルトにおいては、人における自然の認知(「判明」な知)というものと神というものが異なるものとされています。「われがある」のはbe動詞にまつわる問題なんですが「われ思う」のはbe動詞にまつわる問題ではないんですね。ちなみに、「満足する」というのは行為であって現象ではありません。これに関して、ヘーゲルの哲学を学んで得るところは大きいです。
デカルトは、判断というものは外部的な何らかを必要とするのでそこに誤謬が生まれると言っています。ここで判断の主体jeという概念が出てきます。記憶というものを考えてもらえば分かるんですけど、というか記憶というものがどういうものであるかということなんですが、現在の自己が過去の自己に依存することは自己の捏造であって、"Je pense, donc je suis."において"je suis"を意識しないということがどういう統合失調な認知・判断・行動の主体における喪失であるかということです。これは、"je suis"にまつわる問題ではなくて、時間の存在が単なる思惟様態として否定されているということもあります。こういう表現はあまり用いたくないんですけど、自由意志が自由意志として存在するからこそ悟性の正当な使用に役立つものであり自由意志を持ちながらの悟性による判断以外は神の完全性の「欠如」ではなく単なる人の判断にまつわる「否定」とされるべきである、ということだそうです。ちなみに人の自由意志について肯定したデカルトは予定説を謳ったカルヴィニストから攻撃を受けました。デカルトはカルヴィニストが言うとおりの無神論者ではありません。聖書の示すところを弁証することを目的とした中世のスコラ哲学者たちと違ってカルヴァンは聖書を権力保持を第一義とした一般市民に対する自分ら教義の押し付けのための道具にしたに過ぎません、予定説肯定論者は無根拠に(な)神の存在を肯定しているだけで、これはパスカルの神に対する態度と結果としては似ています。

パスカルは、「パンセ」で、汎神的な宇宙が矮小でありそれよりも身近な愛の行為の方が偉大であるとかなんとか言っています。また、「無益にして不確実なデカルト」とデカルトを嘲っています、ユダヤの人たちの神から選ばれたという選民意識は自民族への内向性の果てかと考えられます。
パスカルは若い頃社交界でさんざん遊び散らしたあげく年をとってからポール・ロワイヤルで過度・極端の禁欲生活を送りました、デカルトは若い頃に学校で法学や医学を修めた後に「書物の学問を捨て」人たるものがなんであるか観察するために人と交わることを選んだという生活を送った人です。
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