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考えること

Nicht-Ich

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Nicht-Ich

古代学問を行っていたのは皆男でしかなかったということであり、学問ということについてはそもそも在ったのは学問のみでそれに関するflexibilityは古代存在しなかったみたいなことが書かれている本もあります。キリスト教発生以後、例えば中世においては「哲学は神学の婢女」と言われていたということあり……しかし女が居ました、それこそフッサールその他多くの哲学者たちも「直観」という言葉を使っていますが、これを持ち合わせたところの哲学というものの最先端をゆく真の哲学者としての女という生き物が。

フッサールはデカルトにおける"Je suis."をまず絶対的なエゴの確実性と見做しています。フッサールにおいては、判断されたことが判断されたこととしてフッサール曰くのエゴの確実性とは取り敢えず別物として考えられています。この「判断されたこと」を連続時間的に継続しているとそれは明証されたということになります。ちなみにこの連続時間的な判断の対象つまり「思惟されるもの」をギリシア語の「思う」という動詞「ノエイン」の過去分詞形にちなんでそのまま「ノエマ」と呼びます、これに対応して「思惟するもの」を「ノエシス」と呼びます。
明証には意識が混ざるが故に確実性が損なわれる場合があるが(?)、それをデカルトが原理として打ち立てたものと同じくするそれを超越した疑いの余地が無い明証というものも存在するとフッサールは言います。フッサールにおいては、デカルトは「われあり」だけでそれが成り立つとはしておらずそして「われ思う、ゆえにわれあり」ではなく「われ思う」の時点で既に「われある」のであるということだそうです。ここでフッサールは「超越論的な」という表現を使っていますが、その「われあり」も疑わねばならないとされています。そして、その超越論的な「われ」が如何ものであるかという問題が湧き上がってくるのであり、超越論的なエゴ、ひいては超越論的な経験を通じたエゴの体系的な解明が始まると言っています。
フッサールにおいては、100年前を生きたユダヤ教徒の人だからかなんだか分かりませんけど、結局は「哲学というものが在る」というのではなくて「人が哲学をやる」ということであるのかと思われますが、しかし哲学者フッサールが言っているもしくは推奨しているのは論理実証主義的哲学研究ではなくて論理実証哲学であるので哲学というものの特性からしてこれは否定されるべきものではないということがあります。フッサールとデカルトの共通点には、「われ」は異なっていても「われあり」だけはともに認めているということがあります。フッサールの哲学には「判断停止」という概念がありますが、フッサールは自身における「判断停止」の内(というと語弊があるがここでは便宜上仕方無くこう述べておく)という点を考慮しませんでした。
また、判断の停止によって、フッサールはこの世界の基盤を「解任する」という表現をとっていますが、Nichtseinが単なる「われあり」という自己という現象(を含む)であるにもかかわらず、サブカルチャーやマスコミによる自己(self)のマンガ的キャラクター化というもので影響されてしまうという事態が起こるのはこのフッサールによる考えに端的に表れています。漫画でトリックスターをピエロの絵姿やピエロキャラで描いてあるものがありますけど、社会にはそう仕立て上げられている場合もあるところの自覚意識の無い本物のトリックスターというのが居ます。創作表現特に漫画表現の場合は具体性が必要となるのでもちろんどこかの誰かが意図的に個々人をぶつけ合わせて争いを引き起こすというお話もありきでしょうけど。
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