それが如何様に解釈において分かれるものであっても、「楽しい」というのは私において一義的です。……私は他人が楽しそうにしているのを一歩離れてニヤニヤ見ているのが好きです。
しかし、私が若い頃に現在(西暦2014年)の50代や60代の人間たちが求めていたのは謙虚であることではなく媚びなんですね。他人が彼らに媚びて喜ぶ様を何度も見たことがあるからよく分かります。ちなみに私はリアルの対人関係においてはかなり謙虚な方です。彼らが求めていたのは謙虚であることではなく媚びでした。左翼教育の禍根が見え隠れします。これについては謙虚さと媚びということの区別がついていない、もっと恐ろしく根深いことには日本人特有の文化人類学的な特質が表れています。
嫌がらせというのは、それがどういったアプローチをとるものであれターゲットに不快感を与えること、これに尽きます。よろしいですか、嫌がらせというのは「攻撃」なんです、そしてそれを非難すると連中が吐く「こんなことをやられたくらいで~」とか「何で怒るの?」とかいうセリフは連中からの返答ではなくてカウンターパンチであるさらなる「攻撃」なわけです。ここでは(生物学的な自己同一性から派生する)社会性と言っておきますけど、連中は(自分(ら)の社会性の無さもしくはそれに対する否定は無視して)自分(ら)を無視や否定するのならということで相手である被害者の(生物学的な自己同一性から派生する)社会性を(場合により逆手にとって利用するという形で)否定するということを行います。ここではヤクザだとか(昔居たチーマーという連中やそれ以外の不良少年少女集団を含めた)暴力団員だとか同和系集団構成員だとか穢多非人だとかナチス左翼全共闘の馬鹿(実際ナチスはradical leftです)とは言わずに全共闘信者という言い方をしておきますけど、全共闘信者は全てそうです、連中における「見てんじゃねえ」とか「何見とんねん」とかいうマンガゼリフにはそういったことが象徴されています(このセリフを直に言ってくれるヒトはまだ優しい方です)。ああいう連中はひたすらヤる(fuckする)だけです。連中は殺すか殺されるかの戦場における敵であり仲間ではないわけです、絶対に気を許してはいけません。未来が全て確定しているのであるとしたら何を行ってもどのような犯罪に加担しても同じであるという理念を抱くことを是認することになります、そういった反社会的人間は社会から出ていけということであり実際連中は裁判官気取りです。連中を「うっとおしい」の一言で片付けるのはそれこそが連中の狙いであるという場合もあるのでやめた方が良いです。屋外を歩いていて多々絡んでくるチンピラの群れにおいては、昔の不良少年少女やチンピラ不良中年もしくは不良壮年のような直接的暴力でなく言語やジェスチャーを使ってのターゲットに対するターゲットであることの知らしめつまりターゲットに絡んでいることをターゲットに知らせてターゲットの不快感を煽るという行為もあったりします、これはランダムにターゲットに接近しさえすれば既に事象を関係妄想させる思考パターンが発火している状態のターゲットにおいてはターゲットに対して特に恣意せずともそれが被攻撃となるということを加害のやり手側が知った上でのステルス爆撃に近いものであるということであり、ターゲットは嫌がらせでないものまで嫌がらせであると思い込むようになり狂気に呑まれていくということです、これは抗精神病薬の薬効と加害者による攻撃によって為されます。少なくとも日本人ということについて言うならば私は一部の例外を除いて基本的に他人の存在全てうっとおしいですしまたほとんど全ての他人も私の存在を鑑みてうっとおしいであろうと予測しますが、つまり他人と直に接する機会があっても現実問題として社会を上手く運営していく上でそれをたとえ表情といった些細なものであっても態度に出すのはやめようねというのがお約束であり社会的な暗黙の了解であり大人が取る行動なわけです、だからいわゆるガキ臭い態度やチンピラ少年少女っぽい態度を他人に対して取る人間というのは社会不適応者と見做されるということであってこれが容赦されるのは幼児だけでしょうねということです。
私の出来事に対する基本的なスタンスは、「鳴くまで待とうホトトギス」です。皆が「鳴かせてみせようホトトギス」になったらば殺し合いになるだけです。「鳴くまで待とうホトトギス」ではそうはなりません。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」は単なる文明の破壊者なので放っときゃpurgeされるだけなのでいいです。私は自分で自分の能力を収束させる能力を持ちません、だから自分の意志で努力というものを行うことは苦手です。(一見しての)無力というのは、何もしないことではなくて何も仕様が無いことだったりします。哲学者の中島義道さんが例えば秋葉原の電気街の騒音に耐えられないとどこかで書いておられましたけど、例えば同じく騒音を嫌う私の場合そうでなかったりします。というのは、ああいった類の騒音というのは悪質な自然音のようなもので暴走バイク等々と違ってそこに何者かの悪意が潜んでいるわけではないからです。……ここに落とし穴があります。騒音は騒音なんです。秋葉原電気街の騒音の類が感慨的には不快でなくとも脳は充分に不快感を味わっているということです。ところで、特に幼少期の子供が公立学校の教師に媚びるなどということを半ば強制され繰り返していると人格的に破綻しているegomaniaという有害な人間が出来上がってしまいます。老人の語学習得が遅いというかほぼ不可能に近いのは、若年層のヒトに対してそれまでの人生で情報を溜め込んでしまっているからです。これはマスメディアに対する一種の媚びの中に生きてきた今(西暦2014年)の老年世代の悲しい性(さが)かとも思われます。主体性をしっかり持って生きている人間には媚びという発想はまずありません。