忍者ブログ

考えること

death education

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

death education

あんまり今の20代や30代の若い先生たちを悪く触発するようなことは言いたくないんですけど、公立小中学校場合によっては高等学校においても自分のエゴを児童・生徒に押し付けるような教師にまつわる問題として、煙草に関する問題と同じく、「教師やめますか?それとも人間やめますか?」というものが存しているべきなんですね。いや、だからね、子供の教育に携わる者としての社会的責任というものについてどうお考えなのですかね、ということを申し上げたいということです。学校の教師と子供はお友達関係ではないのですね。
忌まわしくか忌まわしからずか、敵に攻撃されたら何らかの手を打たねばならないという事であるのに、それを見過ごすことが大人であるということになってしまっているということがあるのですね。現代日本の社会における「常識的に考えて」ということの写りによるんですけど、このことの根本には、例えば、ユダヤ人というカテゴリーに属するヒトビトは差別されてきたという事実があり、この「『ユダヤ人というカテゴリーに属するヒトビトは差別されてきたという事実』を常識として植え付ける」左翼教育が右翼的に、当然錯覚を伴いながら、第二次大戦後この日本という国では日本のマスコミに音頭を取られながら、特には小中学校にてそこで行われる義務教育におけるという形でひたすら行われていました。そうやってナチかもしくはそれと同じ様なものを作ることが勤しまれていたわけです。普通の学校教育を受けている日本人の子供は、特別に社会勉強を行っている賢い子を除いて、「(自分たちが生きている社会がどういった様に構成されているかという)認識の在り」をそもそも与えられません。これがネットにおいて与えられる情報で賄われるかというとそうではありません。一般の子たちは皆そうです。

私は、先生は先生であり、教師には「教師」であって欲しかったと思っている子供でした。私個人の経験では、「男は小学校高学年にもなればナイフを持つべき」「(女子児童が居る教室内で)昔は中国で泣き叫ぶ母親から生まれたばかりの赤ん坊を無理矢理取り上げ宙に放り投げて落ちてくるのを銃剣で突き刺して殺していた」等々と説教したりクラスで児童に刃渡り1m弱の戦時中の軍刀を教室内で他の児童が多々居るところで抜き身で持たせて構えさせたりといったことを行ったりする教員が居ました。

例えば、官僚の人たちはその労働内容や社会的責任に見合わない安い給料で働いているわけですし、教師は本位的な社会資本を担う例えば医師や要職の政治家ではありませんから、というか、教師の人たちが教師当該として本位的であってもらっては困りますから、おそらく問題は教師の社会的責任に対しての社会的地位のズレにあるんですね。

後期中等教育までの学習成績というのはやってれば点数なり偏差値なりに出るようになってます、やれば誰でもできるようになってるんです、主にはその入試までの約10年間で(受験)勉強したかどうかの差です。子供の頃から真面目にコツコツ勉強をやっていれば(具体的な実績どうこうよりも、具体的にそういう頭になっていくということ)入れるようになってるんですね。私は、例えば、使命的に一義的であり本位的に医師を志す人がIQの数値で設定されてしまったり偏差値教の信者に負けたりするなと言いたい。その「評定」によって各個人が変逸することは無いのでそのようなことは基本的にどうでもよいということです。例えば、どのような局面でどのような手法によってか、何某が計られ数値が与えられていたとしても、各個人が「こうですよ」という数値を与えられるのならば「そうですか」と納得はしますけどというものであり、逆に言えば、その何某というのはそのような(に)特定の個人における(おいては)一義的なテーゼに過ぎないということです。先生たちも、試験の出来具合に一喜一憂するな、と、おっしゃるでしょ?その点数なり偏差値なりを叩きだしたヒトイコールそのヒトではないので、その捕われが自分をダメにしてひいては勉強の出来を悪くして目的を達成出来ない(不合格)という事の要因となるということです。大学ランキング?あんなものはね、指標としてもロクに使えないような(マス)メディアの音頭です。それぞれの大学の成り立ちがどうでありどういった人がどういった内容の研究を行っているかということが重要であるという事です。大学は教育機関であり、勉強するために行くところなので、真面目に勉学に励んだり先鋭的に研究に携わったりする人(そういう頭の人)が評価されるに決まってるんですね。

現在私は週に一回小規模ながら絵画を習っているんですけど、これを教えてくれる老年の先生は絵画論のようなものを語りながら絵描きの指導をしてくれます、実に勉強になります。もし教師の人たちが官僚の作った指導方針だけが全てではないと考えるのならば、自分たちの存在とは一体何か・自分たちは何故教育を施しているのか・自分たちは何故教育の現場に携わっているのか・ヒトに必ず訪れる死というものを前提にした上で生きるとはどういうことか等々を説教ではなく子供に考えさせるということを含めたpublic educationとでも呼ばれ得る教育を施すべきなんですね。上記のような一般的な勉強はもう二、三十年も前から塾や予備校へ通っていればそこの先生たちが要領良く教えてくれるようになってますし。
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
Shinpei Sugiura
性別:
男性

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

P R