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考えること

anti-egomania 4

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anti-egomania 4

愛というのは捨て身です。そして人はそうそう自己犠牲心を発揮できる対象にめぐり会えるものではないです。ましてやfuckerたるエゴイストには最初から愛を説いても分からないように出来てるんですね、せいぜい肉欲と勘違いされるのがオチです。それが無いと生きるのが苦しい、そういう性質のものがおそらく愛というものの一番分かりやすい表現です。しかし、苦しんで生きているヒトに生きているのが苦しいであろうと問うても(おそらくは苦しさの自覚が無くなってしまっているので)苦しいという答えは返ってきません。

男の私には断言は出来ませんが、おそらく女の性欲は存在と結びついてます。女は存在を賭けて戦ってます、生きてます。女性は何をされてもすぐ感じてしまい「嫌」な思いをすることになるんですね。ヒトのメスにおけるヒトのオスのうっとおしさというのは極まるものがありそうです。もちろん「加害者(側)」はそこを狙ってやるわけであって被害者におけるmemoryを汚すのが「加害者(側)」の目的です。分かりやすく文語的に言うと、加害者側は二筋縄というか被害者におけるanother storyを被害者の外部に取り繕ってひたすらそれに奉じ被害者がそれに巻き込まれるもしくは被害者がその能動的意思をもってして巻き込んでくるのを待ちます、加害者はそれを行い続ければ被害者は堕ちると鑑みているからです。そして、だから、一個体のオスに対して正当な結婚をして欲しいとメスは望んだりします。
三島由紀夫の「葉隠入門」によると、男において最大の女への愛(恋)は女には近寄らず何もしないことです、が、誰か一人の男に愛されないことには女は女をやっている価値が無いので、ここが少なくとも日本人における、男と女の難しいところです。まあ近年様々な技術の発達による種々の利便性により恋愛なんてものに興味を持たない若者が増えているとは思いますけど。

私はヒトのオスですけどヒトのオスの肉体を見て性的欲望を感じることは無いのでホモセクシャルではありません。すべてのヒトのメスの肉体に興味があるかと問われると一概にはそうであるとは言えませんけど。
漫画作品なんかでよく見られますけど、ヒトのメス(の描いた作品)というのはどう鑑みてもヒトのオスよりもセックス意識もしくは性意識が強いと思われるということなんですね。ヒトのオスがヒトのメスにおける陣痛の苦しみを味わうと苦しさのあまり失神するそうです。男女カップルのフィギュアスケートというのがありますけど「男女間の関係ってこんなに美しいものなんだよ」と言わんがためのものっぽいです。もちろんフィギュアスケートというのは西洋発祥のものだからそういう文化人類学的特質から出来上がったものだよということです。

これはデカルトとパスカルの神概念についての説明としてよく使われるものなんですけど、デカルトは「知って愛す」のですね、パスカルは「愛して知る」のですね。私は「知って愛す」です、デカルト型です。現代日本の一般男子はまず性愛の行為を知ってそこから愛着が芽生え始めるという一種の構造愛です、パスカルです。だから私のような男は簡単に貞操を捨てたりしません。現代日本の一般男子はまず最初にすぐ構造をいくつも作るという仕事をしたがるつまり多数の女と性交したがるというわけです。そしてそれは仕事ですから自慢の種にもなったりするというわけです。
残念ながら少なくともヒトにおいては現時点では社会的には男性より女性の方が弱いです、それを的確に理解した上でどう女性の人権と社会生活の場を確立していくかというのがおそらく欧米の民主主義です。日本のそれのように「女だってやればできるんだから!」というセリフに象徴されているのは少女マンガ的な前時代的もしくは前世紀的な幼い民主主義です。この幼い民主主義が日本の気候・風土と合わない(日本特有の)資本主義と結びついてとても良ろしいとは言えない社会が形成されていたいたのがおそらく前世紀の後半のこの日本という国の実態でした。余談ですが、女性も女性で自らの性を売り物にするのがくだらないことだと思い始めたんじゃないですかね。
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