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※……この※印の文は私Shinpei Sugiura(杉浦真平)が書いています。以下のフッサールの哲学の解説(?)概説(?)はクラッカーさんの作品です。
フッサールは存在ひいては現象学的構成というものを考えるにおいてまず綜合という概念から考え始めました。それは、とある存在が例えば時間の経過のうちに様々な形態をとることがあるがその存在がその存在として認知されるような綜合の統一というものがある、という場合におけることです。これは空間的な移動、ヒトの五感において感知されることにおいても同じことです。これはフッサールにおいては「絶対的なこと」と呼ばれます。ここには、その当該存在への「思うこと」において存在としてそれを「思うこと」と当該存在としての「思われたこと」、つまりノエシス-ノエマ的な関係が成り立っています。次にフッサールは時間の概念を取り入れた上での綜合ということを考えます。フッサールにおいては時間は「内的時間意識」というものと客観的と見做された時間そのものに分けられ、後者は前者から構成されたものと考えました。例えば時間や空間の変化において、とある当該存在が持つ客観的時間性はその当該存在が知覚されることによって持たれる内的時間性と区別されます。これらをひっくるめて志向的対象として同一の当該存在であると意識されることが綜合による統一です。この志向的対象としてあることというのは実質的・実在的な構成要素としてあることとは違い、この志向的対象としてあるということは理念的・対象的意味として当該存在を超越しながらまたそのうちにあることということです。これはエゴというものにおいても同じであり、エゴにおける能動性・エゴにおける受動性・矛盾・不整合等々すべてノエマが総合的に綜合によって形成されたものであるということです。これは個々の存在においてのみ適用されるものではなく、フッサールは「意識の生」という言葉を使っていますが、全てのもの・ことに普遍共通なことです。ちなみにこのように考えることの契機としては、このことが発生という時間的に継起する仕方で組み上げられたものではないということがあります、全体的統一としてすでに現出していることを前提としているからこそこれを作用として考察することができるからです。ここで内的時間性内で連続的に継起する時間によって秩序づけられ再び始まりと終わりを持つ時間性をもってして与えられるという逆説的なことが起こりますが、これをフッサールは「意識の生が自分自身に志向的に遡って関わっている」と言っています。これはエゴにも適用される考えであり、フッサールは「体験はすべて地平を持っている」という表現をしていますが、顕在的なことだけではなく過去・未来矜持といった時間的なことや「私がする」と「私はできる」の違いつまり様々な具体的自由が常に何らかの妨害に曝されているということも含めてという非顕在的な体験(こと)についても同じことが言えます。つまりノエマは単にノエマとして現出するのではないということであり、現実に進行する知覚によって志向を規定していくということが起こりますが、それでもさらなる「地平」がそこには存在し続けるということでありこれをノエシス的な志向性と呼ぶことができます。ノエマが単にノエマとして現出するのではないということは、志向的な(何らかの対象の)分析が意識の顕在性の分析に含まれている例えば「私がする」と「私はできる」の違い等々の潜在性を露呈させることです。これによって超越論的な対象を様々な仕方で扱うことが「ノエマ的観点から」行われることになります。これが現象学の研究であり、単に匿名的な事象や存在の研究にとどまらないあらゆる対象やそのうちに見出されるものを意識の相関者として研究することであり、これによって様々な事象や存在の諸様態が解明されることになります。これによって「対象的なものの直感的な存在や非直感的な存在」が理解可能なものとされるつまり当該対象の場合場合における志向的構造によって様々な対象がどのように必然であるかということが理解可能なものとされます。フッサールにおいては「起源」という言葉が使われていますが、ここでデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」に立ち返ることもできるようになります。分かりやすく言うと、すべての志向的分析において事象や存在の潜在的な知覚が可能になり謂わば見えないものが見えるようになることが可能であるようになるということです。これの価値の存在は、すべての顕在的体験はそれを形成している志向性の中で暗黙のうちに潜在的体験によって素描されておりそれが為されれば物事の暗黙の意味を了解可能になるという明証が起こるから、ということに因ります。ちなみに、もちろんこれら現象学において諸々のことを自然科学と同じように明証的に実証することは不可能ですけど、志向的分析という理念はそれにもかかわらず対象における意味をノエシス的かつノエマ的に構成しとある本質的な類型性の存在ということによって正当に成り立ちます、その類型とは「われ-思う-思われたもの」という(これが最も普遍的なもしくは客観的な)ものであり、これが現象学的還元において超越論的な考えの手引きとなります。
フッサールは次に現象学的構成における対象の存在・非存在ということを問題にします。ノエシスにおいては真もしくは偽、ノエマにおいては存在もしくは非存在ということが問題になってきます。これは綜合的に関連しあった意識の仕方が可能であり現象学的な類型に従って研究することが可能である、また逆に明証的に破棄することが可能である、ということがある限り現象学的起源を持つものであり、存在もしくは破棄され抹消されたという場合も含めて非存在ということが問題となり得ます。非存在とは蓋然的な存在・疑わしい存在もしくは価値ある存在・善き存在のように心情においてその起源を持つような領域までの様相的変化を持っておりこれには非現実・想像(かのように(als of)の状態)も含まれます。これは超越論的なエゴもしくは普遍的で本質的な構造形式を持つ超越論的主観性が作り出す志向性でありこれが理性であるとフッサールは言っています。超越論的主観性とはある対象を明証的に同じものとして捉える綜合の進行を捨て明証的な確認という綜合を与えals ofではなく現実に存在する対象を正当なものとするものでもあります。理性は対象に対して明証による絶対なものとしての排他性を与えます。これはア・プリオリに与えられる何らかのものとは違い志向性を持つ生において普遍的な原現象を表すとフッサールは言います、これはその志向性を持つ生たる対象がそれ自身に対してそれ自身を現象しそれ自身を与えるという対象における意識の仕方です。この意識の仕方にはそれ自身が単に与えられる場合と「私はできる」における範囲の確認との違いやそれ自身が同一性を維持したままどの程度までそれ自身という様態に対応できるかということや、さらにはそれ自身とはまったく別のものがそれ自身という様態として現れる場合(この場合それ自身の定立が失敗しこれは「無効」という性格を帯びることになる)など様々な場合があります。で、この明証というものはすべて対象において持続的な所有を創造するものであり、体験の事実として無限に反復可能な「繰り返し、立ち返ることになる」ということを対象に与えるものであり、これは個々の明証それぞれからのみ為されるものではなく全ての存在するものにおいてそれ自体でありこれが真理であり真理自体であるということです。つまり「自体」という語は「(とある潜在性としての)明証」を示しているとこの体験の事実そのものではなく超越論的なエゴに基づいている場合では考えて差し支えありません。また、明証とは明証の全体として世界そのものを捉えることも可能であり、この場合客観的な世界は全体として直感となり個々の客観的なことについてもそれは直観となり、しかしこの場合の明証には完全に予測されてはいないが予測されているということをあらかじめ必要とする予測やそれに当てはまるべくの潜在的な明証を必要としている思念そしてそれらから為る多様な地平が必要とされますが、これはこの場合の明証における不完全性であり幾度この明証を繰り返してもキリがありません。このような明証としての外的体験は客観の唯一の証明となりうるが、それはノエマ-ノエシス的関係が相互に調和を持っている場合における限りのことです。このように、世界の存在は意識に対して超越的でありこれが超越的なものとして存在するには意識の生においてでしかないということがありそしてこの意識の生が世界そのものの意識として世界が世界内に不可分に世界という意味とともに現実に存在する世界を担っているということです。つまり、フッサールはここで「超越的にとどまるということ」ということを強調したいみたいなんですけど、世界というものひいてはおそらくすべての存在においても無限に超越というものが繰り返されていくということです。ここでフッサールはこの世界の現実性と超越性を解明するには完全な経験的明証が必要だと言っていますが、これはそれこそ現実的に不可能です。が、その完全な明証・無限の綜合の組み立てられ方の構造をそのすべての内的な構造に即して解明すること、経験のうちに超越論的体験として内包されている志向性をあらわにすることそして素描された「地平」を個々に明証していくことその繰り返しそしてそれらの相関関係を絶えず研究すること、これが(おそらく哲学の)課題であり存在する対象の超越論的構成である、とフッサールは言います。そしてこれの因を為しているのが内在的な時間性・内的時間意識であり流れ行く生であるということです。
※……この※印の文は私Shinpei Sugiura(杉浦真平)が書いています。関係妄想と精神感応は違います。「私がする」は「私はできる」の十分条件です。「意識の生が自分自身に志向的に遡って関わっている」は精神病理です。「未来矜持」とは何でしょうか。
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