昔上智大学の教授をやっていて十何年か前に国連職員をやっていた緒方貞子さんが著書で「(いろいろな国へ行って)自分の目で見て確かめてみることです」と書いておられました。私は学生時代に黒海沿岸を一人で旅してウクライナまで行ったことがあります。オデッサは実に綺麗(かつ野蛮、旧社会主義圏まで行くと雰囲気が違うので)な街でした。感想文ですけど、特徴的だったのは、痩身の東洋的男子が白色人種であるにもかかわらず旧ソ連邦まで来るとちらほら見られたことと、にもかかわらず朝のマクドナルドで朝食を摂る筋肉質を極めたマッチョなビジネスマンの男性の横でおそらく10代かと思われるレズカップルがブチューッとディープキスをしているという文化的に西欧化された様態が、両立していたということです。
ハイデッガーがその主著"Sein und Zeit"(「存在と時間」)の中で、存在とは最も一般的で空虚な概念であり存在は全ての類的普遍性を超えており最たる不明瞭な概念であると言っていますが、つまり「存在という存在という存在という……」とかいう表現はナンセンスであり「……である」としか表現しようがないということです。ハイデッガーは、まず存在の探求には問うということが必要であり、存在の存在了解性ははじめまったく捉えがたいものではあるがかといってまったく未知のものではないということであり、つまりそれは当該存在の存在を発見するというのではないということを言っています。
デカルトは、オランダに自分の居場所を見つけた人です。デカルトは最後に残るのは「われ思う、ゆえにわれあり(仏:Je pense, donc je suis. 羅:Cogito, ergo sum.)」という真理であると言ってますけど、何故これがdoncの一語で結ばれるのか現代に生きる私にはちょっと疑問です。デカルトは物理的な身体と精神とを分けてますね、だから、前者のJeと後者のjeが別物(そりゃデカルトだって死を知っていたでしょうから)であるとすると一見しては合理的であるように思えるんですけど、そうじゃないんですね。一番最初に「われ思う、その思うわれも偽である」と精神の存在を否定してしまうのがおそらく現代の理学的な解釈です、おそらく。そしてデカルトは自分という「『人』単位」で物事鑑みているのとは違います、というのはこれを書いている私がまず"Je pense, donc je suis."と言ったデカルトという人物と神の存在を前提としているからです……という循環論法(?)のようなものに陥ります。そりゃ神はいるという人間と無神論者の間で争いというか前者が後者を懲罰する体制が出来上がるわけです。だからやはり無神論者は排斥されてきたという歴史的事実には妥当性があります。キリスト教徒は基本的に真に謙虚です、ここから自分と異なるものつまりまず最も身近なところだと異性に対する敬意特に物理的ひいてはそれが社会的強さに繋がっていた男性のそうではなかった女性への敬意があります、だから欧米では例えばこの日本という国に比べて人権意識が発達しているわけです。ちなみにデカルトは幾何学それ自身は少なくとも不完全であり神の現存を説明するには至らないと言ってます、神の存在について論争されるということも「あなたは神を信じますか」というセリフによる問いもそれ自体がナンセンスであるということです。