日本はキリスト教国家ではない上に、ヘーゲルがその「歴史哲学」という著書でこういった考えを述べていますけど、端的に物理的にアメリカとは遠く隔たった場所にあります。で、非キリスト教国日本においてはキリスト教のコミュニティーに鑑みられるような倫理性ははっきり言って見られません、人権意識は非常に乏しいです。数百年の昔からキリスト教の宣教師が日本を訪れて(それがカトリックであれ)キリスト教を広めようとしてくれていたわけですけど、結果としてやはり無駄でした。それを受け入れるどころか上手く利用しようとした織田信長は賢かったかもしれませんが、古狸家康が潰してしまいました。信長の覇権を事実として見做しそこから光秀→秀吉→三成等々は省いて家康という流れ「を(で)追って」いくと何らかの歴史的真実が見えたりします。
経済学は人間を常に合理的な行動をとるものとして無根拠に前提しています。昔の哲学者や神学者たちは無根拠に神の存在を設定するのであろうが聖書を通して神の存在を認識するのであろうが哲学的に神の存在を論証するのであろうが、いずれにしろ無神論者ではありませんでした。ここで文化人類学的なものを考慮する必要が出てきます。経済学的発想がその社会的に最も浸透しているアメリカという国が精神的弱者たる無神論者のカタマリのような国であるかとというとそうではないです。キリスト教新教(プロテスタント)がその社会の根底にあるからです、カルヴァン主義の流れを汲む清教徒なプロテスタント達が大陸から流れ込んで近世・近代とに従って作られた国です。アメリカは国外においても自国生産品の市場をどんどん広げ、ちょっと言い方が悪いですけど、どんどん他国を「攻撃」していきます。第二次大戦後日本という国はアメリカの市場と化されようとしていたという側面もあります。
私は東欧を旅行して見学したんですけど、例えば日本では下手をすればその名さえもほとんど知られていないようなモルドヴァのような国にも日本企業が多々進出しているのを見ました、例えばブルガリアでは韓国企業のLG電子だとかの看板があちこちに見られました。ロシアがそのメインとなっている旧社会主義圏の繁華街は日本の繁華街にそっくりです、ああやっぱり日本は実体旧社会主義だなと鑑みさせれました(ネットを見ていれば分かる通り「新しい社会主義」とでも呼び得るものは現代の社会の随所に鑑みられるので、それのことではないです)。上手~い「開国」。