エゴイスト御用達の価値意識である「(他者を犠牲にしてでも自分だけは)生きる」という発想が社会の発展と共にどんどんナンセンスなものとされていきます。身を守ろうとする人間に限って他者を平気で傷つけます、というか身を守ろうとする結果逆説的に他者を傷つけるという悪循環で人間の歴史は形づくられてきました。「生きる」ことが前面に押し出される時代は前世紀で終わった、社会へのアプローチの仕方の変化により皆「普通に生きる」ことができるようになりました。インフラとしてのネットがこの先無くなることはほぼ確実に無いですし、利用される技術の革新にようやく社会体制が追いついたということです。これから先、「(他者を傷つけながら)身を守って生きる」必要性はどんどん薄らいでいきます。「生きていかなければいけない」といった義務感に触発された何らかのセリフはそれなりにナンセンスです。
エゴイストとは又無根拠に自分の存在を誇示したがる者でもあります。当該社会において無目的であるにもかかわらずどれだけ自分の力を試せるかどうとかいう非常にくだらないアレです。……恐ろしいことにその薬物というのは「抗精神病薬」や「抗鬱剤」という名でカテゴライズされる医薬品なのですが、私はその薬効による絶望的な苦しみを味わいながら自身自分が薬物によって「ああ、これは悪くなっている状態だ」(苦しみ自体は二義的)と何とか認識していたという時期があるからよく分かるのですが、云うなればそういった人間は過度の物理感のかもし出しや結果としての物理的に過ぎるものに逃げ込む場合があります……私はヒトにおける「逃げ」ということがどういうことであるかよく分かっているつもりです。Jesus Christでもない限りエゴの全く無いヒトというのはちょっと難しいでしょうけど、エゴイストと呼ばれ得るエゴの強すぎる人間もしくはエゴの塊のような人間が居ることは居るんですね。私はこの2014年時点で33歳になるまでエゴイストを憎みながら生きてきました、ここに間違いがあったと今は結論できます。
ヒトを辱めても何も良いことはありません、ということはこの場で申し上げておきます。中にはね、そういうことが生きる力になるとかいうことを言うヒトも居るんですけど、基本的にヒトは他者への害意に基づいて社会を構成しているのではありません。
私が知る限りでは、前世紀の第二次世界大戦後の日本の公立小中学校の教師達によって、気に入らない児童生徒には容赦なく試験の結果より低い成績を付けるということが行われました。結果前時代的ではない合理的な感覚を持つ市民の住まう都市部では公立校は没落しました。「何を頑張るのか」という問題がそこにはあるんですけど、教師達は私的感情から逃れられず、部活動に参加する子、生徒会活動に参加する子、学校行事に積極的に参加する子、に試験の成績とは関係なく高い成績を付けました。いらんくだらん個人的な価値意識に基づく説教が授業時間が削られるという形で子供の耳にひたすら吹き込まれるということも行われていました。「学び」の場は提供されるべきものであり押し付けられるものではありません。関係ない努力、つまり人間関係にまつわる媚でカバーして高い評価を得ようとする人間すらおそらく現れることになります、社会はどんどん悪くなります。日教組だの左翼全共闘だのにまつわって、国家の転覆が狙われていたというと言い過ぎでしょうけど、大体の社会問題の元凶は教育の現場において発生してます。彼ら彼女らが何を行っていたかというと子供を左傾化させようとしていたということです、自分らの言うことをよく聞く・自分らのエゴを受け入れる具体的には学級委員や児童会・生徒会役員等々という形をとるところが多いところの昔の芸能タレントやカリスマ性を持った運動万能選手やノーベル賞受賞者のようなアイドル子供を基点にしてそれより下の子供を作るんです、そうして子供の劣等感を煽りまくって児童会・生徒会といったローカル社会での活躍という形で子供たちに殺し合いをさせるということです(少なくともそのような形でのローカル社会はローカル社会であり実社会とは区別されるべきものでしょう)。
不謹慎であると思われるかもしれませんが、暴走族というのはある程度は居た方が良かったんです、彼らは極めて大通りしか走行しない上に彼らがそれが間接的な脅し威力によるものであれ個人的暴走車両を問題視して取り締まっていてくれていました。ところが警察がその暴走族を取り締まり過ぎてバイクで暴走音を立てて走る非常に迷惑な個人的暴走バイク乗りや暴走四輪自動車乗りがビビらしてくる相手が居なくなったということで調子に乗りはじめて最近増えたという事実があります。あれらは極大に大きな音を発出させながら深夜大通りを暴走するとかいうことは行わず小道を中程度のしかし迷惑であることこの上ない不快な種類の暴走音を垂れ流しながら走行するということを行うので警察もほとんど取り締まれないわけです。非常にタチが悪いです。警察は、騒音源の取り締まりについては、騒音の種類や出し方については関知する権限を持たず、騒音の音量の大小を根拠としてしかそれを取り締まることができないのですね。だから、他には例えば、2~3年前に私が「die Zelle」というタイトルの前ブログを書いていた時のことですけど、マンション下階方面から早朝だったり深夜に及ぶまで過重なモーター音のような騒音や壁や床や天井を叩く衝撃音のような騒音を発してくるというこちらにとっては非常に迷惑な事態があってもその騒音の出し方によっては警察はこれを関知することができず取り締まることができないということがあったりもするのですね。
ところがこのような一般市民が迷惑するという事態が在った方が都合がいいという連中というのが居るんですね。日本のマスコミ、と断定してしまうことは上述の私の轍を踏むことになるので間違ってますが、実態の掴めない反社会的勢力というのは存在します。左傾化させたくてしようがない全共闘世代の連中かもしれませんし、下の世代や若者子供たちが言うことを聞かなくて困ると言って身勝手なことをやる今の50歳代や60歳前後の人間たちかもしれませんし、有益な市場として日本という国を利用したいアメリカ国の国家的策謀かもしれません。釣りと閲覧者に対する内容に拠る劣等感の植え付けにいそしむ連中にとっては自分らの垂れ流す売国奴的有害情報に簡単にのせられて踊らされてくれる愚かな人間達が居てくれた方が都合がいいわけです。
ちなみにアメリカというのはここ200年くらいで新しく出来上がった国です、あの国には云わば西欧諸国が新大陸という土地を利用して作り上げた技術を生み出すことの必要性から文明の国としてつくられた汎世界的な存在であるという側面もあります。前にも書きましたけどマックス・ヴェーバーという学者がこのあたりのことについて語っています。エドムント・フッサールは、100年前のヨーロッパで実証主義が既に台頭し、(個々の哲学者による真理へ近づかんとするための哲学やモデルを持つ学問ではない)ルネサンス期に始まったルネ・デカルトをその祖とするような普遍的な真理としての「哲学」すなわち純粋理性(の規則と呼びうるもの)から自己の生活に対して自由を与えようとした人々の活動が失われたといって嘆いています。
今世紀特に近年になって若者の社会意識もおそらく大きく変わりました。もはや競争原理のみに基づく特定の社会の構成は時代遅れです、受験競争なんて言葉も無くなりました。もちろん一般に言われる「大文字での」社会主義やロシアでレーニンがそれに変換させた共産主義とは異なりますけど、「仕事」の時代が真に来たわけです、死への恐怖感が薄らぎ人々が健全・健康になった、「生きる」ということが至上ではなくなったわけです。真に人と人がつながりあって真の絆の元生きるとはそういうことです。もちろんこれは平和の産物です。
余談ですけど、あらゆる形態にエゴイスティックな人達というのが居ます。「信じるもののために戦う」という言語表現はまさに彼ら彼女らの行動原理を物語っています。例えば「人それぞれ」を信じて戦うもしくは非暴力非抵抗に戦わないという形での戦うということが有り得たとしても、彼ら彼女らにおいては戦う理由は人それぞれではないんですね。だから、きちんと教育が行き届いている社会においてはエゴイストは一定量居てくれた方が良かったりします。つまりエゴイズムの一番分かりやすい形態をいわゆる身勝手だとすると、危険なようですが、個人主義に傾倒するという身勝手はありです。「人それぞれ」という言葉をそのまま体現したような近代的人物群です。