犯罪を犯さないように自分で自分をコントロールするというのはほとんどの一般市民が行っていることだと思いますけど、犯罪者性を自分から遠ざけているといずれは何らかの形でか歪みが自分に出ます、それが人間にまつわる精神的弱さというものなのかもしれないです。……ひったくりをした者がそれだけで殺される社会とひったくりをした者がそれだけでは殺されない社会を単純に比べることはできませんけど、もし有り得るならば後者の方が確実に恐ろしいです。一般市民は安心して外を歩けなくなります、過大な社会不安にも繋がります。現代日本語でただ単に「弱い」というとオツムが弱いだとかケンカが弱いだとかそれこそ物理的なものの表象へと勢いで突っ込んで解釈したくもなりますけど、そうではないです。そしてまたこのような人間は死をひたすら恐れます、多分これは弱者を悪事へ走らせる負のスパイラルの一要因になります。これの極致は、どのような良い行いでも自覚的であるようでは駄目ということですけど、これは多分現実に肉を纏って生きているヒト一般には不可能なことでしょう。そこにキリスト教の互いに付随的な価値と役割があるかと思われますが。
悪事を働かない・真面目でいることが第一義として来るというのはヒトとして基本的なところです。真面目というのは、いわゆる偉い人や学校の先生の言うことを鵜呑みにして言うこと聞く無知蒙昧な人間のことではありません。何がどうなっているかをきちんと把握してその上で合理的な行動を取ることができる優等生のことを言うのであって、つまりは合理的に物事に対処できるヒトが真面目であって同時に頭が良く且つ賢いということです。
社会的にというか汎世界的に悪事は千里を走って大抵その悪事を犯した人間のところに返ってくるようになってますということなんですけど、いわゆるヤキがまわるというやつですね、エゴイストというのは悪事を犯すことが普通になってしまっているが故に、程度に応じてヤキがまわってくることが宿命づけられている者々なんですね。悪人を見て哀れみながら「あの人のために祈りましょう」という聖人君子的な言行は別段神聖なものでもなんでもないのであって、そのような人たちの「悪人をあわれむ」ロジックはこういうことだったりします。
生きることから逃げるというのと死ぬことから逃げるというのでは、後者の方が逃げであるのは当然です。「生きる」人間というのは逃げてるんです。死ぬことを恐れるようになる様なことはしないつまり享楽には最初から浸らない、というのが賢い生き方です。ちなみに、死ぬ為に生きる自分をのみ愛しているのは自己愛かもしれません、人々の中には自己愛すら無い人も居るかもしれません、が、これは他者からコントロールされやすいので危険です。例えば過食、食うという行為によって自己愛を傷つける自己愛をこのような人間が持たされてしまうのは簡単なことです。生きるというのは意志を纏った行為ではないんですね。